「音楽の聴き方」

岡田暁生著、中央公論新社より6/25に発刊されたもの。
先日読んだばかりの、この人の著作http://zauberfloete.at.webry.info/200906/article_11.html
が印象的だったので買ってみた。なお、名著とされる「西洋音楽史」(中公新書)は未だ読んでいない。
テーマがあまりに抽象的で大きすぎるとは思ったが、読み始めてみるとあまりのおもしろさに、並行して読んでいた本をすべて中断して一気に最後まで読み切ってしまった。

それにしても、この本の適切な要約とそれに対して思ったことについて簡潔にまとめる能力および日本語の表現能力が私自身に欠けていることをあらためて情けなく思う。
哲学的な教養をほとんど持ち合わせていないことに加え、きわめて自分流に音楽を聴いてきた私にとって、この本の内容はかなり衝撃的ではあった。以下、稚拙な抜粋。

著者は、音楽の「語り方=聴き方」には確かに方法論が存在する、という前提に立ち、「どう聴こうが自由」と考えられている音楽鑑賞の世界にも「こういう音楽が来たら、こういうパターンとして聴く」という暗黙の約束事が無数に存在している、と述べる。
音楽は決してそれ自体で存在しているわけではなく、常に特定の歴史/社会から生み出され、そして特定の歴史/社会の中で聴かれる。どんなに自由に音楽を聴いているつもりでも、私たちは必ず何らかの文化文脈によって規定された聴き方をしている。そして「ある音楽が分からない」というケースの大半は、対象となる音楽とこちら側の「聴く枠」との食い違いに起因しているように思う。(中略)ただし、自分自身の聴き方の偏差について幾分自覚的になることによって、もっと楽しく音楽とつきあうことが出来るのではないか。
さらに、音楽に国境はある―‐音楽は聴くものであると同時に、読んで理解するものである。そして音楽を正しく読むためには、「学習」が必要となってくる。文法規則を知り、単語を覚えなければならない。音楽には語学と同じように学習が必要な面がある――という主張である。
そして、アドルノのトスカニーニ批判、ポリーニのショパン:エチュードの演奏などを引き合いに出しながら結局のところ、まずはそれに従ってみることがあってもいい、つまり、それらの背後にある何らかの歴史的経緯や人々の大切な記憶について、「こういうものを育てた文化=人々とは一体どのようなものなのだろう?」と謙虚に問う聴き方があってもいいのではという、音楽と向き合う心構えを提案している。

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