前打音の演奏の仕方

橋本英二著「バロックから初期古典派までの音楽の奏法」(音楽之友社/2005)、第一章(装飾音)第一節(前打音)を読んでいたところ、下記のような記述があった。
長前打音の長さについて、当時の多くの文献(C.P.E.バッハ、L.モーツァルト、クヴァンツ、テュルク他)で一致していることは、
1)主音が二等分できれば、前打音と主音は半分ずつ。
2)主音が付点の場合には、前打音は三分の二で主音は残りの三分の一。
3)タイでつながっている二つの音の最初に前打音がついている場合には、前打音は第一音符の長さをまるまる占めて、主音は第二音の長さだけとする。
4)フレーズの終わりで、主音のあとに休止があれば、前打音は主音の長さいっぱいをとり、主音は休止の場所に移る。
5)付点リズム(「付点8分音符+16分音符」や「付点4分音符+8分音符」など)に前打音がついていれば、上述の第2項(付点音符の規則)が通用するが、付点リズムも保つようにはかる。
ただし、和声や他の声部との関係からこうした方針から離れることもあるし、また表情を増すためにもっと長くすることすらある。

以上のうち注意すべきは、2)の原則であり、一般的な説明にもはっきりと書かれている。
http://ja.wikibooks.org/wiki/%E8%A3%85%E9%A3%BE%E8%A8%98%E5%8F%B7
http://nocturne.vis.ne.jp/music-dictionary/abbelliment.html
つまり、結果的に前打音の方が主音より長くなるということである(視覚的には、そうすることにやや抵抗を感じるが)。
そして、5)の原則が重要で、付点リズムに前打音がついた場合には、前打音を主音(最初の付点がついた音符)の三分の二、主音を三分の一の長さにするのであるが、「付点リズムも保つ」という意味は、主音と次の音符が同じ長さになってしまう場合にはその中で付点(長短)関係を保持させるということになる。たとえば、
長前打音の8分音符 + 付点8分音符 + 16分音符のような場合、原則に従えば、
(長前打音は主音の三分の二の)8分音符 + (主音は三分の一の)16分音符 + 16分音符 
となるが、後半二つの音符が同じ長さになってしまうため、
長前打音の8分音符 + 付点16分音符 + 32分音符と、後半二つの音符の間で主音の方にウエイト(付点)をつけるということになる。
この演奏法は、L.モーツァルト:「基礎的ヴァイオリン教程」(Augsburg,1756)に書かれているとのことである。

ここで、モーツァルト作曲「Das Veilchen(すみれ)」K476の第2・4小節目(歌は第9・11小節目)の各一拍目をみてみよう。
Ein/Veilchen auf der/Wiese stand,ge/bueckt in sich und /un bekannt
この箇所、楽譜には下記のように書かれている。
長前打音 + 付点8分音符 + 16分音符
これを上記の原則にあてはめれば、下記のように演奏すべきと思われる。
8分音符 + 付点16分音符 + 32分音符
しかし、一般的にこの箇所は下記のように演奏されてきた。
16分音符 + 8分音符 + 16分音符
これを初めて「正しく」演奏したのは、(おそらく)エディト・マティスとベルンハルト・クレーによる1970年代前半の演奏だった。しかし、その後も従来の歌い方をしている人がほとんどのようである。手元にある下記のCDを聴いてみたが、「正しく」演奏していたのは、マティス&エンゲル、ツィーザク&アイゼンロールのみであった。
○シュヴァルツコプフ&ギーゼキング(EMI/1955)
○ケート&ヴァイセンボルン(BERLIN Classics/1966)
○バトル&レヴァイン(DG/1984)
○白井光子&ヘル(CAPRICCIO/1985・1986)
●マティス&エンゲル(Novalis/1986)
○ヘンドリックス&ピリス(EMI/1990)
●ツィーザク&アイゼンロール(NAXOS/2006・2007)
なお、NMAオンラインのK476の楽譜には「正しい」演奏法が欄外に書かれている。
http://dme.mozarteum.at/DME/nma/nmapub_srch.php?l=2

前打音の話はここで終わるのだが、NMAの楽譜を見ていたら、34小節と62小節のそれぞれ最初の二つの8分音符にもガイドが書かれていることに気がついた。下記の左側は原譜、右側がガイド(演奏法)。
34小節:C(Weil) C(chen)→D(Weil) C(chen)
62小節:A(Veil) A(chen)→H(Veil) A(chen)
これはまさしく、歌唱掛留音(歌唱アクセント Gesangsakzent またはアッポジャトゥーラ Appoggiatura)の演奏法:
レチタティーヴォ(時にはアリア)において、一つのフレーズの終わりに二つの同じ高さの音が並んだとき、この第一の音を書かれているより一音高く歌う。
に基づくものである。
次に、私が持っている音楽之友社版「モーツァルト歌曲集」(OGT1501/1975)を参照してみたところ、何と該当箇所はいずれも、NMAのガイドに書かれている通り、それぞれ一音高い音符に修正されていた。
ここからは想像だが、モーツァルトはアポジャトゥーラの原則が適用されることを当然のこととして、二つの音符を同じ高さで書いたのだが、後の出版社が気を利かせて(?)、オリジナルではなくアポジャトゥーラを付けた音符に変更したのではないかと思われる。なお、上記の演奏は一つを除いて、すべて修正後の音符で歌っている。
「モーツァルトが書いた通り」に歌っていたのは、前打音がついた付点リズムを正しく歌っていたツィーザク&アイゼンロールの演奏。おそらく、演奏者はモーツァルトのオリジナル(自筆譜)を参照したのであろう。前打音がついた付点をモーツァルトが意図した演奏法にしたのは良いが、アポジャトゥーラの演奏法までには目が行き届かなかったためこのような演奏になったのだろう。


なお、この本の「レチタティーヴォでの前打音の解釈」という項には、下記のように書かれている。
18世紀の半ばから、イタリア式のレチタティーヴォでは、フレーズの終わりで3度や4度の下降を前打音として変更するのが習慣になった。
Johann Friedrich Agricola(1720-1774)による、Anleitung zur Singkunst(Berlin,1757)のP.154では、「カデンツで4度下がるときには最後から2番目の音を書いてあるものより4度高く(つまり前の音と同じピッチで)歌うべき」と説明している。
また、テレマン カンタータ集(Leipzig,1725)の序文から引用されている譜例には下記のようになっている。
例1記譜)AAHCGG(休符)
  奏法)AAHCCG(休符)
例2記譜)HDHGisGis(休符)
  奏法)HDHGis(休符)
http://zauberfloete.at.webry.info/201112/article_27.html

(2/13追記)
○長前打音と判断する場合
1)完全終止、または半終止の最終音につく前打音
2)フェルマータの音符につく前打音
3)カデンツのトリルに先立つ音階下降の前打音
4)短い音符がいくつも続いたあと、強拍の長い協和音の音符に前打音がついている場合

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