和声感

金聖響+玉木正之「ロマン派の交響曲(「未完成」から「悲愴」まで)」講談社現代新書/2009.5(「ベートーヴェンの交響曲」に続く第2弾)を読んでいたら、次のような大変興味深い記述があった。少々長くなるが引用する。
<ドイツ人が奏でるドイツ音楽と非ドイツ人が奏でるドイツ音楽の違い、についてさんざんドイツ人に訊いたが、結局はっきりと言葉では答えてもらえなかった。が、いろいろ音楽を聴くなかで決定的に違う部分があることがわかった。それは、和声感が備わっているかどうかだということ。
音楽というのは、主音の和音から属音の和音に移って、また主音の和音に戻るというのが基本であり、「Ⅰ→Ⅴ→Ⅰ」と進む音楽が、いくつか合わさって大きな「Ⅰ」の部分や、大きな「Ⅴ」の部分ができて、大きな「Ⅰ→Ⅴ→Ⅰ」ができあがる。そのとき、「平常→緊張→解放」という流れがあらわれるが、そのときはテンポが一定であるはずはない。緊張から解放へ移るときは一瞬の「間」が生まれるはずで、その「間」があるからこそ解放されるので、テンポも遅くなるはずである。
そして、近代の作曲家のなかにはリタルダンドの記号を書き入れている作曲家もいるが、ハイドンもモーツァルトも、ベートーヴェンも書いていない。ブラームスも特に強調したい箇所以外は書いていない。でも、その和声、ハーモニーの変化によるアゴーギク(緩急法:テンポに微妙な変化をつけて音楽に生彩を与える演奏法)は、当たり前のことだったから作曲家は書かなかった。
その和声の変化によってアゴーギクを巧みに使うことを、「和声感がある」という。ドイツ系、ヨーロッパ系の人間は「和声感」が備わっていて、自然にそれができる。>

この話は先日の「音楽の聴き方」
http://zauberfloete.at.webry.info/200906/article_22.html
の中の、「音楽は一つの言語でもあって、文法と語彙を知らないと理解できない部分がある」という記述に通じるものがある。「音楽を正しく読む」ためには感性以外のものも必要となるという点であり、そのルールや書法を理解していないと理解できない、従ってそれ以上に、表現することはもっとできないということになるのであろう。聴くのは受身だが、表現するのははるかに能動的行為だからである。
少し話しは逸れるが、それに関連して思い出すのはアーティキュレーションについて。アーノンクールなどの著作を読むと、モーツァルトの時代にはフレーズの演奏に関する暗黙的なルールがあって、作曲家は特に楽譜に何も書かなくてもここはこのように演奏するという慣習があった。従って当時の演奏家はその原則に沿って演奏した訳で、モーツァルトの場合、「慣習とは異なり、ここは特にこのように演奏して欲しい」という場合に限り特別にアーティキュレーションを書き入れたとも言われている。
また、アポジャトゥーラ
http://zauberfloete.at.webry.info/200906/article_14.html
の演奏の仕方にしても、そのルールを知らなければ、いくら楽譜通りに演奏したとしても作曲家が本来意図した音楽は再現できないということになる。
アマチュアとはいえ演奏する側の立場としては、「和声感」が元々備わっていない場合でも、様々な演奏を数多く聴くことによりある程度それを学ぶ(経験的に理解する)ことは可能だし、アーティキュレーションやアポジャトゥーラなどの理論・慣習について一通り理解しておく、といった努力は最低限必要と思う。そうした背景、周辺の前提知識なしに、作曲家が書いた楽譜だけをいくら深く読み込んでみても、それはやはり片手落ちではないかと私は思っている。

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