モーツァルト:演奏会用アリア「手に口づけすれば」K541

モーツァルトはこの曲を、1788年6月にウィーンで上演されたパスクワーレ・アンフォッシ(1727~1797)の喜劇オペラ「幸運な嫉妬」に挿入するためのアリアとして、フランチェスコ・アルベルタレッリというバス歌手(ウィーンで最初にドン・ジョヴァンニを演じた)のために書いた。
機知に富むフランス人、ムッシュ・ジロが、世慣れていないドン・ポンペーオに、若い女性に求愛する危険について忠告する部分で歌われる。歌詞は下記の通りで、皮肉味に満ちた文学的な内容は、これがダ・ポンテの手になるものであることを示唆している。

手に口づけをすれば、あなたに奇跡が起こり、
それであなたは美しい娘と結婚したくなりますぞ。
「けれどあなたは少しおつむが弱いから、
かわいい私のポンペーオ君よ、
世の習わしを学ぶべきでしょうな」

男は愛らしい娘と結婚したなら、
まず自分の気まぐれなお遊びは諦めねばなりませんぞ。
妻にはやりたいようにさせておくのです。
常に戸口は開けたままにし、閉じておくのは目と耳と口。
もし間抜けの中の間抜けと思われたくないならば。

ニール・ザスラウ著「モーツァルトのシンフォニー」の「ジュピター」の項を読んでいたら、第一楽章にこのK541が引用されているという記述があり、私も全く記憶がなかったので、さっそく取り出して聴いてみた。
DECCAのモーツァルトのコンサート・アリア全集の中の一枚、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウが歌っている。調性こそヘ長調ではあるが、紛れもなく「ジュピター」、第一楽章の第二主題の後101小節からのメロディーがほとんどそのまま歌われている(上記「けれどあなたは少しおつむが弱いから、」以下太字の部分)。いや、モーツァルトはこのアリアを「ジュピター」に転用したという言い方が正しい。
このアリア全体の雰囲気は、「フィガロの結婚」や、「コシ・ファン・トゥッテ」の雰囲気に通じるものがあり、「フィガロ」の中にこのアリアを置いたとしてもまったく違和感はない。「神聖な」ジュピターの中に、なぜこのような庶民的なアリアが、とも思うが、スタンリー・セイデイは「K551の第一楽章はこの時期のモーツァルトのコミック・オペラの精神に満ちている」と述べている。
コミック・オペラとは「ドン・ジョヴァンニ」の台本に書かれているような「ドラマ・ジョコーソ」として知られるジャンルであり、下級階層の人物を登場させるオペラ・ブッファ、王や女王、神々や女神を登場人物としたオペラ・セーリアなど以前は別々だったジャンルを混ぜ合わせて生じた新しいジャンルである。こうしてK551の第一楽章では、あらゆる階級の登場人物――ジュピター、ムッシュ・ジロ、ドン・ポンペーオ、そして我々には紹介されていない他の登場人物が――がほぼ平等に、同じ舞台で、自分たちの時代を謳歌することができた。これこそ、アンシャン・レジームがいつも押さえつけておこうと必死になっていたものにほかならない。そして、この革命家(モーツァルト)はセーリア的人物たち、ブッファ的人物たち、中庸の人物たちの中へと入ってゆき、感情を突然爆発させ、意表をつく転調を行い、管楽器を雄壮にオーケストレーションし、そして、あまりにも快適なものと受け取られている社会の真実に一撃を浴びせることを楽しんだのである。(以上、ニール・ザスラウによる分析のまとめ)
いずれにしても、私自身このアリアを知って以来、「ジュピター」に対する認識を新たにしたことは事実で、モーツァルトにとってこの曲は神々を描いたものでも何でもなく、日常的な歌を素材に発展させた一つの統合への試みではないかと思えるようになった。自分で「けれどあなたはおつむが少し弱いから」のテーマを吹きながら、笑い出しそうになるのをこらえている・・。

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